しかし誰かにうちで暮らす子供の話をしようとすると、雪見はいつだって言葉に詰まるのだった。第一単純に「子供」と言ってはみたが、その少年は、雪見の実子でも縁ある関係の者でもない。
例えば「子供」の特徴を挙げるとしよう。殆どの間帽子を被っていて寒がりの彼は雪見が属している里の首領から預かった存在で、色は白く青い目をしている。まつげが長く、殆ど女みたいな顔立ちをしており、挙句体重が極端に少なくて、歳の割りに小柄だ。挙句口数は極端に少ないのでなんというか、餓鬼の癖に掴み所のないやつだというのが最初の頃の印象であった。
そして何より、禁術であるあの気羅を使った。
指をひとつそっと差し出して、まばたきする間も置かずに人を殺す。そんな調子だから彼を初めて実地の任務に連れて行ったとき、雪見は大層げんなりしたものだった。ただでさえ子供は好きじゃないのに、こんな厄介な子供の厄介な生き方を見れば、いくら不躾とはいえ溜め息も出るというものだろう。


「……和穂。俺は食費で破産して奴と心中するかもしんない」
表の仕事帰り、家に真っ直ぐ帰る前にと立ち寄った馴染みのカウンターに座ってそう呟いたら、アガリを盆に乗せて運んできた妹がぱちぱちと二度目をまたたいた。
「なんスか?辛気くっさい顔しちゃって」
「食う。あの餓鬼馬鹿みてェに食う。見ろよ今月のコンビニのレシート、あああしがないライターの俺に養えるかってんだよちくしょうバカバカ!」
真面目な心持ちで突っ伏して言うと妹は呆れ返った顔をし、兄の正式な許可もなく勝手に結婚してしまった寿司屋の男と目を合わせ、やれやれと嘆息する。いつのまにそんなに生意気になったのか。(元からだったような気もする。)
「でもあの子、まだちっちゃいじゃないっスか。保護者としてそれぐらいの甲斐性なくてどうするんスか、我が兄」
「妹よお前は知らない。あいつのあの腹は底なし沼だ。森羅万象もびっくりだぜ」
「ハイハイ」
「おめー真面目に聞いてねェだろ。ムカつくなーホンット……」
ズッと熱い茶を飲むと、それだけで胃袋にしみていく気がした。背凭れに身体を預けて大きく息を吐き出した雪見は、今頃家でぼんやりとテレビを観ているであろう子供のことを考える。

これまで子供に与えてみて受け取られたものは、数えてみればほんの一握りだった。横になって寝る空間と、食事と最低限の服と一杯の飲み物。それ以外はなんら望まなかったのだ。触れようともしない、手も伸ばさない。挙句の果てには一瞥もくれず、「俺にはいらない」というただの一言で終わらせてしまうことさえあった。
雪見は、和穂がまだ小さくて手のかかるハナタレだった頃を思い出す。そして、あの子供が座り込んでじっと動かないさまも一緒に思い出す。
「……」
「どうしたんス、ボーッとしちゃって。 ほら、あまりにも食費がなくて造反とかナシにしてくださいよ」
「お。よっしゃ!」
ぱんっと両手を合わせて拝む形にする。妹の小さな手によってことりと置かれたのは、店で出している握り寿司だった。まぐろやいかなどのネタが、十貫ほど彩りよく綺麗に並んでいる。それからもうひとつカウンターに置かれたのは持ち帰りのための折り詰めで、こういう気配りが出来る大人に育ったのは、兄の教育が良かったからに違いない。
「恩に着るぜ、和穂」
「そんなこと言って、最初から狙って来たでしょ。妹にタカるなんてサイテーっすね」
「安心しろよ。俺は借りは1.5倍くらいにしてほどほどで返す主義だ」
「どーだか!」
いっと歯を見せた妹に雪見は少し笑う。笑ってそれから、「和穂」と名前を読んだ。
妹の名前をこんな風に改めて呼ぶことは、久しぶりだったかもしれない。
「悪ィけど、こっちも包んでくれねェ?」
「いいっすけど、なんで?」
「持って帰るわ。宵風に」
すると和穂が「え、」とこちらに目を向けたので、失言だったかもしれないと思ってがりがりと頭をかく。そういえばそもそも、居候することになった子供の呼び名さえ他の誰にも説明をしていなかったような気がする。
「ヨイテって、あの猫の名前?」
「あー……だからよ、まあ、それに近いようなもんだろあの餓鬼も。名前を名乗らなくて不便だったから……なんだよ」
「ううん。なんでも」
「だーっ、にこにこにこにこすんな!!」
一気に居た堪れない気持ちになって席を立つ。だって、これは優しさなどではなくてただの消去法だ。宵風の欲しがるものが食べ物と飲み物、そして雨を凌ぐ部屋たったそれだけだというのなら、雪見はこうして腹が一杯になるまで飯を食わせてやるぐらいしか「保護者」としての仕事がないのだから。


宵風は死ぬほど食べる。所作こそうつくしいけれど、ばくばくとそれは豪快に量を食べる。無表情に作業じみた様子で食料を摂取していく。そして何でも、さも執着がないのだという風に口にした。
しかしあれは本当は、執着しているのだ。
そうでなければ、何物にも手を伸ばしたがらない宵風があんなにも望むはずがなかった。宵風は、食事という行為を好いているのだった。雪見はそれをいつしか知るようになり、「宵風の欲しがるものとそうでないもの」を知るようになり、そして宵風の方も何が欲しいのかを尋ねればかつては「なんでもいい」だったのがそのうち、「レモネードがいい」などと甘ったれたことを言うようになった。







思えば、雪見が分からない宵風の望みは、残るところあとたったひとつばかりだ。
それが死でないというのなら一体どういう形をしているのか、我々は到底知りえなかった。しかし、だからといって尋ねることが出来るはずもなかったのである。

「たっだいまァ、っと」
右手に取材先でもらったケーキの箱を提げて帰った雪見がドアを開けると、向こうのリビングで宵風が体育座りをしているのが見えた。
「宵風」
(名前を呼ぶと、顔を上げて振り返るのだ。まるで昔あの三毛猫が、よくそうやって雪見を見据えたように。)電気をつけていることを珍しく思ったが、今はもうひとりの居候が居るのだった。
「それに、壬晴。土産があるぞ」
こちらも、名前を呼ぶとひょいっと顔を覗かせた。外が暑かったので先に顔を洗いたかった雪見が手招きすると案の定、宵風は座り込んだまま壬晴だけ立ち上がってケーキを受け取りに来る。
世界で唯一宵風がそのくちびるで自らの一番の望みを渡した相手で、森羅万象の子供。
「ありがとう、雪見さん」
「……いや」
俺は時々、お前が羨ましいよ。
そんな風に考えて、らしくねェなと苦笑いをしたいような気持ちになった。ケーキを渡したきり玄関に突っ立っている雪見を見て壬晴が不思議そうな顔をしたので、雪見はその頭を髪が絡まるほどむちゃくちゃに撫でてやる。
「うわっ、なに?」
「別にィ」
この子供が宵風の傍にいてよかった。宵風が自分で選び、誰にも話そうとしなかった望みを口に出来たのなら、「保護者」として喜ばしい話じゃあないか。

宵風という子供の話しをしよう。これはかつて雪見が属している里の首領から預かった子供で、色は白く長いまつげに青い目をしている。体重が極端に少なくて、歳の割りに小柄だ。しかし「小柄」というのはかつてのことで、いまや宵風は猫背の雪見を少し見下ろすくらいに背が伸び、雪見と一日中何も喋らないなんてことはなくなった。

「雪見さん、酔ってるの? ぐちゃぐちゃになるってば」
「うっせ、酔ってねェよ。おーい宵風」
壬晴にしたみたいにあれの頭を撫でたら、多分殺されるに違いない。宵風は、そういうものを望んでいないのだ。
だから名前を呼んでみる。かつて一番にあの子供へ望まれたのがそれだったのを、雪見は今でも鮮烈に覚えていた。



望みの達成計画