普段もっぱら実務を担当している雷光がすとんと俄雨の目の前へ腰を下ろしたかと思ったら、いそいそとファイルを広げてペンを持ち、「お前はまだ養生が必要なのだから、ほら、休んでおいで。今日は私がお前の仕事を書類を手伝う番だよ」などと言う。 俄雨は、その一言を聞いて飛び上がりそうになった。体の内ではいま喜びと動揺に感激や恐縮を足したものが混ぜこぜになり、それらが血管の中に溶け込んでばくばくと鼓動を刻んでいる。正座の上で握り締めた手のひらと頬が、いっぺんに熱くなる。 「い、いえ、雷光さんっ! お気持ちは大変有り難いのですが、そういう訳にはいきません。雷光さんのお手を煩わせるなんて、」 「いいから。今日は休んでおいで」 「いいえ!」 だって雷光の役に立つことが俄雨に課せられた仕事なのだから、そんなわけには行かないに決まっている。しかし雷光は少し寂しげに目を伏せて、しまった、彼の命令に背くなんてとんでもないことをしてしまった。 「お前って子は。本当に、仕方がないね」 「すみません、雷光さん……あの、僕」 「では、手伝わせてくれるかな。ふたりで進めよう。それならいいかい?」 「は、はい!もちろんです!」 お仕事を手伝わせていただいているのは僕の方なのにと慌てながらも、よくよく考えれば雷光とこんな風に向かい合って書き物をするなんて初めてのことだ。実際俄雨が入院している間にたまった書類はそれなりの量があったし、その言葉に甘えてしまおう。そんな風に考えて、ボールペンを握り直したのだった。 雷光が言う。 「俄雨、この一件の処分を行ったのは何日のことだったかな」 「九月最初の火曜だから、四日です。ほら、雨の晩で寒くて……」 「ああ、そうだったね。それで罪状は?」 「忍具を使った窃盗及び、強盗罪です、雷光さん」 「うんうん、覚えているよ。確かあれは岐阜の……」 「いえ、そのぉ……茨城ですね」 「おや」 まばたきした後で「いけないいけない」と舌を出して自分の額を小突きウインクの星を飛ばす、そんな照れ隠しはとてもユニークで俄雨には到底真似の出来ない。そのまま「すまないね、俄雨」と言われて「雷光さんのお役に立てるのなら嬉しいです」と返すと、なんだかとても複雑な顔をされた。(俄雨は雷光を殆ど世界の決まりごとのように考えていたので、疑う気持ちなどこれっぽっちもない。例えばこれが雪見なら、雷光がわざと分からない風を装いからかって遊んでいるのではないかなどと疑うところである。もちろん、真実は闇のなか。) 「……」 再び書面に向かった雷光がことりと首を傾げたので、俄雨は叫んだ。「何か僕にお答えできることがありますか!」 「俄雨」 「はい、なんでしょう」 「面目ないが、お前の名字はなんだったかな?」 「!!」 まるで雷が落ちたようだった!いや、雷では字面が幸福すぎる。心が引き裂かれたかのようだった。俄雨は少し俯いて、震えるくちびるでそれでも回答をするのだ。 「め、目黒です。目黒区の」 「そうか、そうだったな。……ああそれと、名前の漢字も分からなくなってしまった。「が」が我という字じゃなかったことは記憶していたのだけれど」 「……その字に、にんべんが付くんです」 「なるほど。それじゃあ俄雨、」 (あ、まずい、顔に出そう、) 「私は怒っているよ」 「!」 弾かれたように顔を上げる。静かなその瞳はしかしそういう色ではなくてもっと寂しいものを称えていて、その瞬間体中の血液が床へどっと溢れたように背中が冷たくなった。 (どうしよう、雷光さんのご機嫌を損ねてしまった。僕ごときが、名前を忘れられてしまったというくらいでおこがましかったんだ。雷光さんがお怒りになるのも無理はない、お傍に居られなくなる以外のいかなる罰も受けよう。)ぎゅうっと目を瞑った瞬間、誰かに頭を撫でられる。 「え」 雷光だった。その白くてうつくしい手に撫でられて、思わずうわあと叫んで引っ繰り返る。彼は俄雨の目をじっと見据えたまま、こう続けた。 「いくらなんでも、私がお前の名前を一文字一句忘れるはずがないだろう?最初に会ったとき、お前の名前を誉めたのが私たちの言葉の始まりだ。 それを疑われるなんて、心痛の極みだよ」 「……ら……」 らいこうさん!!もう半分泣いている声で呼んだら「とは言え私も悪ふざけが過ぎたな。すまないね、俄雨」と苦笑された。 俄雨は本当は、雷光がその名を変えなさいと言うのならいくら新しい名が増えたって構わないのだ。傍に居られればそれだけで、存在の根源である名前などいくらでも捧げられる。いくらでも。 ごしごしと手の甲で目元を拭うと、そんなに擦るものではないよと優しい声で言われた。ああ泣いている僕を見て不思議と少し楽しそうでいらっしゃるけれど、それはきっと気のせいだろうと思う。 |